父は、おいしそうに、うれしそうに、ビールを飲む。
外で食事をするときには、「ええ天気じゃけぇ祝杯じゃ」と、晴天まで祝いごとにして生ビールを注文する。祝杯の理由は、しっくりくる補聴器が見つかったり、カープのドラフトがうまくいったり。父の「めでたい」は、日々の中に転がっているのだ。
祝杯と言われたら、私もハッピーな気分になって、ついついご相伴。ささやかな楽しみではあるけれど、92歳の父と笑ってビールを飲めるなんて、幸せなことだと思う。
薄めの焼酎のお湯割に梅干をひとつ。数年前までは、これが父の晩酌の定番だった。それが、いつしかビールに変わったのは、気候変動のせいだ。猛暑が続いたある日、カラダを冷やしそうなものはほとんど口にしてこなかった父が、缶ビールを2本買ってきた。
シャワーを浴びた父は、なんとなくそわそわしている。「さっぱりした〜。さっき買うてきたんが冷えとるかの」と冷蔵庫をのぞきに行く。「今飲む?」と声をかけると、「いや、晩めしのときでええ」と冷蔵庫の扉を閉めた。
かと思ったら、すぐにまた開ける音がした。缶ビールを1本手にして、「まぁひと口飲んでみるか。半分ずつ飲まんか?」と、食器棚からグラスを2つ取り出している。そこまで用意してもらったら、断わる理由はない。
「よー冷えとるわぁ。うまいのう」。グラス一杯のビールで上機嫌な父を見ていると、つくづく喜び上手な人だと思う。
その日から、わが家の冷蔵庫には、缶ビールが欠かせなくなった。
そして、老人ホームに入居してから、父は日々の晩酌をやめた。
ホームの決まりごとの中には、お酒を禁止する項目はない。留意事項として「飲酒は常識量として下さい。また健康に配慮し制限させていただく場合がございます」という一文があるだけだ。実際、父が入居しているフロアには、晩酌を楽しみにされているご婦人もおられるらしい。
そのことを父に伝えると、「ここでは飲まんでええわ」という意外な答えが返ってきた。「飲みたかったら、ちょっとくらい大丈夫だよ」と言っても、「まぁええわ」と笑っている。そのかわり、私と外出するときは、昼食の前に一杯飲むのが決まりごとになった。
もしかしたら父は、お酒を飲みたいのではなく、乾杯をしたいのかもしれない。誰かと一緒にお酒を飲んで「うまいのう」と言いたいのだろう。それも、身近に起こった小さなめでたい話を肴にして。
そんな父が、「今日は献杯じゃの」とグラスを空に向かって掲げた日がある。21回目の母の命日だ。お酒は強くなかった母だが、グラス半分くらいのビールは飲めた。今思えば、父の晩酌にちょっとだけ付き合っていたのかもしれない。
娘の私は父に似たらしく、そこそこ飲める。昼間にビールを飲んでも顔に出ないので、午後から仕事もできる。いろんなことにかこつけて祝杯をあげる父にとっては、なかなかいい飲み仲間ではないだろうか。
今年は長い長い残暑で、10月になってもビールで乾杯していたが、秋風が吹くころ、父のリクエストは焼酎のお湯割に変わった。
さて、次回の祝杯は、どんなネタにかこつけてくれるのか。喜び上手な父に期待している私がいるのである。
投稿者プロフィール
- 広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」
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