その76 入れ歯知らずの96歳

父ときどき爺

 父のすごさを、あらためて実感した出来事がある。

 ある朝、目が覚めて鏡を見ると、私の顔にくっきり刻まれていた右側のほうれい線が消えていた。一夜にして何らかの美容効果が出たのではなく、奥歯のせいだ。数日前から痛みを感じていたが、ついに、こぶとり爺さん状態になってしまったのである。よくも、まあ、こんなに腫れたものだ。

 永久歯になってから初めて、親知らずではない歯を1本抜くはめに。日頃のケアをいろいろ後悔しても、もう遅い。歯の痛みが出てから、口にできるのは軟らかいものだけで、何を食べてもおいしくないことに愕然とした。人間は1本の歯によって、こんなにも生活の質を左右されるのか。と、頭では知っていたつもりのことが、身にしみてわかった。

 そのとき、真っ先に浮かんだのが父の顔だ。96歳の今も、自分の歯をぜんぶ保っている。そのことは、ずっと前から知っていた。素晴らしいとも思っていた。けれど、私自身が歯を失ってみて「本当にすごい!すごいどころではない!」と心の底から尊敬したのだ。

 父の自慢でもある「入れ歯はないです。ぜんぶ自分の歯です」という言葉は、出会った人に驚いてもらう持ちネタになっている。日本でこのネタを使える96歳の人数は、どのくらいなのだろうか。

 

 8020(ハチマル・ニイマル)という歯の目標がある。生涯にわたって自分の歯を20本以上保つことにより、咀嚼力を維持して健やかで楽しい生活を送りましょうという運動である。具体的には、80歳で自分の歯が20本以上ある人の割合を、日本全体の20%以上にするという目標を掲げているそうだ。親知らずを除いた永久歯の数は28本あるそうなので、不可能な数字ではない気がする。

 けれど、実のところ80歳以上の平均は5本を下回っているらしい。この数字を知るとますます、96歳で「ぜんぶ自分の歯です」という父の持ちネタは、胸を張っていいと思う。そして、「何を食べてもおいしい」と笑顔でがっつり食べる父の元気を支えているのは、間違いなく丈夫な歯だ。

 ただひとつ、近ごろ気がかりなことがある。父がお世話になっている高齢者施設のスタッフの方によると、昼食をしっかり食べたあと、しばらくして「昼ごはんはまだですか?」と尋ねることが何度かあったという。今のところ心配するほどではないようだが、その話を聞いて私は妙に納得した。この先、父がもしボケるとしたら、食べたのに食べていないと言い出すことかなと、ぼんやり想像していたのだ。もっと言えば、食いしん坊のDNAを受け継いだ私自身も、将来そうなるかもしれないと思っている。

 食べることは、生きること。何はともあれ、いくつになってもおいしく食べられる人生は口福だ。そのためにも、父を見倣って歯をもっともっと大切にしなくちゃ。
 



【次回更新 その77】
2024年1月3週目(1月15日~19日)予定

投稿者プロフィール

角田雅子(かくだまさこ)
角田雅子(かくだまさこ)
広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」

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