その23 毎度の「ごっつぉう」

父ときどき爺

 父は、92歳の誕生日に「うなぎを食べたい」と言った。

 外食の店を選ぶとき、何が食べたいかを父に訊くと、決まってこう言う。「わしは何でもええよ。働かんでも腹はへる。腹がへったら何でもうまい!」と、ひとしきり笑ったあと、こう続けるのも毎度のことだ。「じゃが、まぁ、うなぎはうまいのう。それと、天ぷらはえびがええ」。

 父にとってのご馳走は、うな重とえび天。それはもう、半世紀近く変わらない。90代になってからも、うな重一人前はぺろり。その食べっぷりは、わが父ながらお見事である。

 誕生日を迎えるひと月前、父は自分が思い描いた「これから」のシナリオ通り、介護付き有料老人ホームに入居した。わが家から歩いて15分。父が朝の散歩コースにしていた橋をひとつ渡った先にあり、週2回デイサービスでお世話になっていた施設だ。

 父が引き寄せた運だろうか。入居希望を伝えてから、担当のケアマネさんも驚くほどトントン拍子に話が進み、元号が令和に変わるころ、父は新しい生活をスタートした。

 入居日が決まって、「行ってらっしゃい」の食事会をしたときも、父のリクエストはうなぎだった。

 父がお世話になっているホームは「料理がおいしい」と評判で、入居前の健康診断で訪れたとき、付き添いの私も食べさせてもらった。味も彩りもバランスもよく、うす味を感じさせないうま味があって、大人の理想的な健康食だと思う。やっぱり専門家はすごい。

 ただ、年齢のわりにがっしりした体型で歯も丈夫、何でもがっつり食べてきた父には、量が足りないらしい。ごはんを多めにしてもらうよう父が自らお願いして、「栄養バランスを考えながら、できる限り多めにしますね」と快諾していただいた。

 そのおかげで、入居してひと月たった今、父は理想体重になっている。腰まわりに付いていた肉がほどよく落ちて、動きやすそうな体型だ。日々の食事だけでなく、体操などのリハビリや、デイサービスで知り合ったお仲間と囲碁や麻雀を楽しむ時間も、父をよりいっそう元気にしてくれたのだろう。

 入居前は、「あと5年は生きるじゃろう」と言って人生のシナリオを描いていた父が、「なんか、わしは、死なんような気がする」と笑っている。

 たまの外食も、父にとってはワクワクするイベントらしい。約束した日の何日も前から、私が会いに行くたび「うなぎにするか、天ぷらにするか、お、生ビールも飲もうかの」と、がっつりの血が騒いでいる。

 もちろん、誕生日祝いのうな重も「うまいうまい。おおごっつぉうじゃ」と、満面の笑みで平らげた。娘の私のほうは、あっさりしたものを好むようになったが、父の食に対する情熱は衰えるどころか、ますますパワーアップしている。「食い力のある人間は生き力がある」と何かの本で読んだことがあるけれど、父はそれを「へへっ」と証明してみせた。

 あれよあれよという間に、父と暮らした家に置いてけぼりを食った娘は、食い力でも父に置いて行かれている。こりゃあ、とてもじゃないけど、追いつけそうにありませんわ。

 ホームの部屋まで送った帰りぎわ、「また、ごっつぉうを食べに行こうの」と父が笑顔で手を振った。たまには、うなぎと天ぷら以外のものも・・・と言いかけたが、父がこよなく愛する2大ご馳走に勝るものは、見つけられそうにないのである。

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投稿者プロフィール

角田雅子(かくだまさこ)
角田雅子(かくだまさこ)
広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」

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