その35 わちゃわちゃの日常

父ときどき爺

 父とは、うっかり再会した。

 新型コロナウイルスの感染防止対策で、父がお世話になっている老人ホームは3カ月近く面会中止になっていた。耳が遠い父に想いを伝える手段は、もっぱら手紙。受け取った父からは、「ありがと、ありがと、大丈夫じゃ」という電話がかかってきていたので、元気な声は聞くことができた。

 緊急事態宣言が解除されたあとも、ホームの面会中止はしばらく続き、その間に父は93歳の誕生日を迎えることになった。

 プレゼントを届けることはできるが、顔を合わせて「おめでとう」の気持ちを伝えることはできない。そこで、誕生日の当日、父には自分の部屋のベランダに出て来てもらうことにした。ホームの駐車場から手を振れば見える位置にあるので、キープディスタンスの拡大版で再会しようという作戦だ。

 日時と段取りは、手紙を書いて知らせておいた。この作戦の発案者である姉と一緒に、画用紙に大きく「93」「歳」「お」「め」「で」「と」「う」と書いて、テープでつなげたメッセージボードも用意した。

 準備は万端。父からは「楽しみにしとる」という電話があり、遠くからでも顔が見られるのを、私たちも楽しみにしていた。ただ一つ心配なのは、せっかちで前のめりな父が、ベランダから身を乗り出して落っこちそうにならないか…ということ。テンションが上がり過ぎないよう、早めに切り上げなくちゃ。

 作戦決行の日。駐車場でスタンバイする前に、受付へ向かった。誕生日プレゼントをことづけるためだ。

 「これを父に渡していただけますか」「今から降りて来られますよ」「え?…あ、父がですか?」「はい。ご本人が会いたいとおっしゃったので」「いいんですか?」「ちょっとだけですけど、お誕生日ですからね」「お気づかいありがとうございます!」

 どうやら父は、私たちが来ることを事前に伝えて、会えるようにお願いしていたらしい。

 おっと、いきなり作戦変更だ。玄関先であわててメッセージボードを掲げようとしたら、エレベータの扉が開いた。父が杖をつきながら、前のめりで歩いて来る。マスクをしている目が、思いっきり笑っていた。

 「おお、元気じゃったか」「うん。お父さんも元気そうだね」「はぁもう、93歳じゃ。まだ当分、あの世からお呼びはかかりそうにないけどの」

 いつもの名調子が飛び出して、いつも以上にみんなで笑った。

 3カ月ぶりの再会は、うっかり顔を合わせてしまった感じになったけれど、このわちゃわちゃした展開こそが、わが家らしい「いつものこと」だ。

 その数日後、条件付きで面会制限が解除されることになり、あらためて予約を取って会いに行った。

 マスクよし。手洗いよし。さらに消毒をして体温を測ってもらい、アクリル板で仕切られた面会コーナーに通された。1回に面会できるのは2名まで。時間は30分以内。この条件は段階的に緩和されていくと思うが、念入りに対策をしてくださっているのは、本当にありがたい。

 身振り手振りを交えて話す父は、ときどきアクリル板の存在を忘れて指をぶつけていた。「ありゃ。はようコレもなくなりゃあええの」と照れ笑い。それでも、顔を見ながら話ができる短い時間を楽しんでくれているようだ。

 おかげさまで、コロナ禍でも笑って93歳になった父の新しい日常は、もうはじまっている。

⇐その36 なるようにはなる

その34 よーい!ディスタンス

投稿者プロフィール

角田雅子(かくだまさこ)
角田雅子(かくだまさこ)
広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」

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