その64 秋晴れの気晴らし

父ときどき爺

 父は、宮島で紅葉狩りを楽しんだらしい。

 瀬戸内海に浮かぶ日本三景の宮島は、言わずと知れた紅葉の名所。コロナの感染状況が落ち着きを見せていた11月のはじめ、父はお世話になっているホームのレクリエーションで、この島を訪れた。家族との外出は制限されているけれど、ホームのみなさんと季節を楽しめるイベントを、スタッフの方々が企画してくださっているのだ。

 父は、こうしたイベントにほぼ毎回参加している。もともと家の中でじーっとしているのが苦手なので、誘われるといそいそ出かけて行く。それでいて、帰宅したときに「どうだった?」と訊ねると、「気晴らしになってええわい」とひと言。これがいつものパターンで、見たものや食べたものの細かいことは、ほとんど覚えていないようなのである。

 今回もそうだった。面会日に「宮島の紅葉はきれいだった?」と話をふると、「ん?宮島かぁ・・・」視線が宙を泳いでいる。「みなさんと一緒に行ったんでしょ?」「おっ、そうじゃった。紅葉は見たような気もするが・・・ま、気晴らしになってええわい」。

 スタッフの方から伺った話によると、その日は朝早くからそわそわして、いつでも出かけられるようにスタンバイしていたらしい。これも、父の行動パターンである。「さぁ、行くぞ」と靴を履くまでが、父にとってはいちばん楽しいのかもしれない。出かけた日の夜は、何もかも忘れて翌朝までぐっすり眠れることも、気晴らしの効用なのだろう。

 
 私が父と一緒に宮島へ行ったのは、母がまだ生きていたとき。25年以上前のことだ。部屋から朱塗りの大鳥居が見える旅館で、お風呂と昼食を楽しむ日帰りの家族旅行だったと思う。そのことを父に話すと「おうおう、そんなこともあった気がするのう」と、数日前に宮島へ行ったときの話題よりちょっとだけ反応がいい。年を重ねると、きのうの記憶より昔の記憶のほうが思い出しやすいと言われているが、その実例が目の前で繰り広げられていた。

 それにしても、95歳の父が、自分から積極的に気晴らしをしようとする姿勢には拍手をおくりたい。あそこへ行ったここへ行ったと、誰かに話したいのではなく、その時間を楽しく過ごせればいいのだ。これまでも、父はそうやって自分の機嫌をとってきたのだろう。

 コロナ禍で行動が制限されつづけているが、私の知る限り、父が不満をまわりの人にぶつけることはない。心の中のもやもやが全くないとは思わないが、言っても仕方がないことは、口に出さないようにしているのかもしれない。

 かの福沢諭吉先生は、『学問のすすめ』に「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と書かれた。わが父は『気晴らしのすすめ』を体現して、「人との間に不機嫌な空気をつくらず」な生き方を選んだようである。

【次回更新 その65】
2023年1月3週目(1月16日~20日)予定

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