父のアクシデントは、なぜか私が遠出をしているときに起こる。
今から4年前。一緒に暮らしていたマンションの入口で父が転倒して、管理人さんから連絡をもらったとき、私は帰りの新幹線のホームにいた。あわてて父に電話をしたら「大丈夫じゃ」と言っていたが、私が帰宅すると「頭が痛い首も痛い」と言い出して、夜中に救急車のお世話になったのだ。
幸いなことに大事には至らなかったが、父をひとりにしたことを悔やんだ。私にとっては、ちょっと苦い記憶だ。
そして、つい先日。父が入居している高齢者施設から電話がかかってきたときも、すぐには帰れない場所にいた。父が転倒したと聞いて「あっちゃー。またか」と苦い記憶がよみがえった。今回は、私が遠出をしていることを父は知らない。なんとも不思議な巡り合わせだ。
後日、このことを友人に話したら「そうそう。あるある」と何度もうなずいていた。高齢の親御さんのことが気がかりで、何事もないようにと思いながら出かけた日に限って、何かが起こるというのだ。やれ熱が出た。やれギックリ腰になった。アクシデントの内容は様々だけど、何事もないようにと考えた瞬間から、何事かを引き寄せているのかもしれない。
だったら、むやみに不安がるのはやめよう。心配してもはじまらない。というのが、私と友人の間でひねり出したアクシデント対策だ。的を射ているかどうかは分からないけれど、楽観的に考えなければ、どこにも出かけられなくなってしまう。
父の今回の転倒は、椅子から立ち上がろうとしてバランスを崩し、右肩のあたりを打ったらしい。痛みがあるので、念のためレントゲンを撮ることになったという連絡だった。
診断結果は、骨折なし。それを聞いて心底ほっとした。打撲ならば、日にち薬で治るだろう。父の不死身っぷりに、また新たな伝説が加わった。
と、胸をなでおろしたのも束の間。痛みが長引いているので再度診察してもらったところ、腱板が切れたのではないか、という診断だった。95歳という父の年齢では、手術をして縫合するという選択肢は選ばないほうがいいらしい。症状を和らげる治療を受けながら、痛みとつき合っていくしかないそうだ。
私が「肩はまだ痛い?」と訊くと、「腕を高く上げようとすると痛いかの。まあ大丈夫じゃ」と答える。「大丈夫じゃ」は父の口ぐせなので、まるまる信じているワケではないが、自分で服を着替えているし、テーブルに手をついて立ち上がる動作もできている。今のところ、日常生活に支障はないようだ。父自身が弱音を吐いていないのに、「痛い」という言葉を私が口にするのは控えよう。
アクシデントが起こっても、この程度で済んでよかった。そう考えることで父が元気になるなら、私はいくらでも能天気になれる。それは、事あるごとに「笑って暮らすのが一番ええ」と言う父親譲りの性分だと思う。
ただし、転倒しないに越したことはない。いくら不死身でも、七転び八起きに挑戦する必要はないからね、お父さん。
【次回更新 その70】
2023年6月3週目(6月12日~16日)予定
投稿者プロフィール
- 広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」
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