その5 これも富士山のご利益?

 父にも、富士山に登るような青年時代があった。

 そのことを知ったのは3年前、私が初めて富士山に登ったときだ。なんとか剣ケ峰までたどり着いて帰宅すると、「たいしたもんじゃ。よう登った。たいしたもんじゃあ」と父はうなるように言った。あまりにも褒めてくれるので、もしやと思って訊いてみた。「お父さん、登ったことあるの?」「おお」「えっ!いついつ?」「東村山におったとき」「東村山って?」「兵学校の訓練で」「えーーーっ!?」初耳である。

 私の問いにぽろりぽろりと答える父の言葉をまとめると、父は戦時中、東村山にあった東京陸軍少年通信兵学校で通信兵になるための訓練をしていたらしい。そこで終戦を迎えたので戦地には赴いていないが、富士山でも訓練をしたそうだ。

 17歳の父が身につけた通信の知識と技術は、その後、戦地ではなく復興する日本の電信電話を支える一助になるのだが…今回は話を富士山に戻そう。

 私の富士登山は富士宮口五合目からのスタートだったが、父はルートをよく覚えていないそうだ。もともと訓練生には、詳細が知らされなかったのかもしれない。それでも、自分の体験と重ね合わせて「たいしたもんじゃ」と褒めてくれた父の言葉から、過酷な訓練だったことが想像できる。現代の装備で五合目からゆっくり登った私よりは、はるかにハードだったに違いない。

 訓練生10人で1つの班をつくり、重い通信機を背負って山道を登ったという父が、当時を思い出しながら話してくれたのは意外な体験談だった。

 訓練の途中、同じ班の2人が力尽きて動けなくなったが、その荷物まで引き受けて背負える屈強な者も2人いた。残りの6人は、自力で登れる体力はあったが、自分の荷物だけで精一杯。父は、その6人の中にいたという。やがて屈強な2人が疲れてくると、6人の中から名乗りをあげる者が出て、トップグループが入れ替わる。そうして10人が協力しながら、脱落者を出すことなく訓練を終えたそうだ。

 10人のうち飛び抜けて力の強い者が2人、普通の者が6人、弱い者が2人。この割合は、訓練に参加した他の班も同じくらいだったことを知り、「うまくいく組織とはこういうものか」と思ったそうだ。そのとき感じたことは、社会に出てからも同じだったという父の言葉に、私も妙に納得した。

 富士登山の話が組織論に発展するとは思わなかったが、社会人の先輩としての顔を垣間見ることができたのは新鮮だった。と同時に、父について知らないことは、まだまだたくさんあるのだろうと思った。

 父が自分から身の上話をすることは、ほとんどない。尋ねれば答えてくれるので、私が積極的に知ろうとしなかったというほうが正しいのだろう。あたり前のことだが、私がもの心ついたときから父は父で、父になるまでどんな人生を歩んできたのか、じっくり尋ねる機会がないまま暮らしてきたのだ。

 富士山という共通の話題があったことで、思いがけない話が聞けたのはラッキーだった。さすが日本一の霊峰。山をおりてから、父と娘の距離が縮まるこんなご利益が待っていたとは、ありがたい、ありがたい。

 あれから父には、折りにふれて昔のことを尋ねるようにしている。もしかしたらボケ防止になるかもしれない…という期待もありつつ、根ほり葉ほりのインタビューは、つ・づ・く。

〈おことわり〉東京陸軍少年通信兵学校の訓練の話は父の記憶によるものです。もしも事実と異なる点がありましたらご容赦ください。

   

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角田雅子(かくだ まさこ)
広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作会社を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」。
 

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