父にとって96回目の夏、いや、生まれた年も加えるなら97回目の夏が終わろうとしている。
残暑の街を歩いて汗をかきながら会いに行くと、散髪したての父が涼しげな顔で迎えてくれた。今年の猛暑もなんとか乗り切ってくれたのは、父自身の体力と気力もさることながら、お世話になっている高齢者施設の皆さんのおかげだ。熱中症予防に感染症予防、転倒予防、誤嚥予防など。日々の暮らしに潜むさまざまな危険に対して、つねに目配りと気配りをしていただいている。
退屈予防という言葉があるとしたら、それも気配りの一つだろう。カラダと頭の体操は、手を替え品を替え飽きないように。季節を楽しむ行事も、毎月のように用意されている。囲碁仲間にも恵まれ、おやつを手づくりするレクリエーションにも、父は率先して参加しているそうだ。
こうして、時間を持て余すことのない日々を送っている父は、疲れたら昼寝をして体力を回復する。決まった時間にちゃんとごはんを食べて、エネルギーをチャージする。そして、また動き出すのだ。退屈予防のおかげで、過ぎたことを後悔したり先のことを憂いたりする暇もないのだろう。
気に病むことがないならば、体が病むこともない。とは言い切れないけれど、父が長生きできているのは、心が健康なのだと思う。
健康といえば、父は私の顔を見るといつも「健康そのものじゃの」と笑う。ぷっくりしていると言いたいのだろうが、褒め言葉と受け取って、私も笑う。そして「健康けっこう。けっこう毛だらけ猫灰だらけ」と、『男はつらいよ』の寅さんの口調を真似ながら、おどけて見せてくれる。冗談めかしているけれど、「健康けっこう」は96年生きてきた父の本音だ。そのためには、おおらかに生きることが大切だと言う。
「つまらんことにこだわって、仲たがいをした人たちもたくさん見てきた。あれほど、つまらんことはない」と、いつになく真顔の父。「おおらかに生きりゃあええ」という金言は、父の人生経験から生まれた養生訓なのだろう。
寅さんには、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という名セリフがある。痛いところを突かれて、それはそうだけど、言葉にされたら身もふたもない。いくら親しい間柄でもぎくしゃくするよ、と映画を通して教わった。
思えば、父から「それを言っちゃあ、おしまいよ」という言葉を投げかけられたことはない。「太っている」を「健康そのもの」と言いかえるように、父の言葉にはユーモアの粉がふりかけられているからだ。
おおらかになるためには、笑いのセンスも必要なのだと、父を見ているとつくづく思う。風の吹くまま気の向くまま。寅さんのように旅はしていないけれど、父は笑いをふりまきながら、自分のペースで健やかに生きている。
【次回更新 その75】
2023年11月3週目(11月13日~17日)予定
投稿者プロフィール
- 広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」
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