アートスペースを主宰しながら、テレビ出演や講演なども行う日本唯一のアウトサイダー・キュレーター櫛野展正(くしの・のぶまさ)によるコラム。
今回取り上げる表現者は、鹿児島県の甑島に住む平嶺時彦(ひらみね・ときひこ)さん。満州出兵やシベリアで捕虜となるなど過酷な戦中・戦後を生き抜き、80歳を過ぎてから作品をつくり始めた平嶺さんには、自分の人生を引き受けるという気概がありました。
94歳の表現者
ある晴れた日。眠い目を擦りながら新幹線とフェリーを乗り継いでやってきたのは、鹿児島県の北西・東シナ海に浮かぶ甑島(こしきしま)だ。目的地に向かう道中、車窓から広がる透明度の高い海や玉石垣が連なる昔ながらの武家屋敷など風情豊かな景観が旅の疲れを癒してくれる。
今回の目的地「ギャラリーヒラミネ」は、2012年にオープンした甑島にあるギャラリー兼カフェで、この島に住む平嶺時彦(ひらみね・ときひこ)さんの作品を中心に展示している。
平嶺さんの手書き文字が看板になったギャラリーの周囲には、平嶺さん作の大きなモルタルで出来た動物たちが存在感を放っている。さらに、展示室内にある壁一面のウィンドウには、動物から人間、妖怪まで、およそ50を超える作品が並ぶ。紙粘土や針金、藁など身近な素材を使ってつくられた作品群は、どれも表情豊かで味わい深い。小さな作品は数時間でつくることが出来るそうだが、このギャラリーが出来たことで、創作意欲はますます盛んになったようだ。
特に目を引くのが、画面に粘土を貼り付けた立体的な絵画で、少年期の思い出を表現したものが多い。「これはわしが6歳のとき、山から雄牛を3頭連れて来とった様子を思い出して描いたんですよ」。声のする方に、平嶺さんの姿があった。現在94歳、まだまだお元気そうだ。席に着くと、平嶺さんはゆっくりと自らの半生を語ってくれた。
甑島にて河童を目撃
3人兄弟の長男としてこの島で生まれた平嶺さんは、19歳で出兵し、満州で食料や武器など軍需品を輸送する輜重兵として、独立輜重第64大隊(通称・7000部隊)に所属。戦局が悪化するにつれて、輜重兵にも「九九式破甲爆雷」を使って戦車のキャタピラを破壊する肉薄攻撃が求められるようになった。いわゆる特攻命令だ。
誰もが怖気付いて逃げていく状況だったが、平嶺さんは「平嶺一等兵は只今より戦車攻撃に行ってまいります」と特攻の道を迷わず選択。「出兵したときから、うちには帰らず靖国に祀られるんだという思いがあった。わしは11番目におったわけよ。それが『10番目から後尾にさがれ』と命令が出て助かった。ガワシローのおかげやろと思うたわけ」と話す。
平嶺さんの言う「ガワシロー」とは、甑島の言葉で「河童」のことだ。19歳のとき甑島で水田の暗渠に座っている姿を目にした。当時は絵本や図鑑などにも掲載されておらず、目撃者もいなかったため、最初は蛙だと思ったが、すっと立ち上がると全長はおよそ30センチもあり、頭の周囲や背中に毛が生えていた。
皆に話しても「そんなもんがおるもんか」と全く信じてもらえなかったが、後日、知人にその話をしたところ「それは河童ではないか」と教えてもらったという。平嶺さんがつくる作品には、この河童をモチーフにしたものが多い。よほど印象的な出来事だったようだ。
シベリアでの抑留生活を経て帰還
終戦後は、シベリアで抑留され捕虜になった。「シベリアに行かずにその場で潔く自決する人もいたよ。シベリアに行っても雪の中で仕事することを嫌がる人がいたけど、わしは誰にも負けない自信があったから、強かったわけや。経験もなかったけど大きな大木の伐採作業をやったんだよ」。
3年間の抑留生活の中ではいち早くロシア語を習得し、今でも少し喋ることができる。伐採中に足を骨折することもあったが最後まで作業には従事した。
やがて引揚船「高砂丸」で京都・舞鶴港へ帰還。23歳のときには島に戻り、2年後に結婚した。復員して20年後に、骨折した足に杉の葉が入ったままになっていることが分かり、そこが化膿してきたため、鹿児島の病院で手術を受けることになった。
無事に手術は成功したが、入院生活で目にしたのは、自らの余命ばかり考えて生きている患者たちの姿だった。「そういうことを忘れさせないかん」と平嶺さんは「刺繍の針と糸を買ってこい」と看護師に依頼。「そんなものどうするのですか」と不審がられたが、独学で文化刺繍を習得し多くの刺繍作品をつくって患者たちを喜ばせた。
若者に刺激を受け、80歳を過ぎてから創作
45歳で、島の土木を行う建設会社を創業した。そんな平嶺さんが本格的に制作を始めたのは80歳を過ぎてからのこと。孫の林太郎さんが、2003年に甑島で「甑アートプロジェクト」を始めたことがきっかけだ。
それまで趣味で干支の人形などをつくってはいたが、来島するアーティストの独創的な作品に刺激を受け、一念発起。若いアーティストがブルーシートやボンドを使って作品を制作する姿を見て、身近なものでも素材になることを学んだ。
年間100作品を生み出すハイスピードで次々に制作を続け、2008年からは毎年、甑アートプロジェクトに自身の作品を出展するようになった。
自宅にある初期の作品も見せていただいたが、2013年に他界した妻が入院する際に「早く良くなって帰ってくるように」と吊り下げた大きな鶴や祖父の姿を模した人形、そして浦島太郎に坂本龍馬など、経年変化で壊れてしまったものも多いが、実に多彩な作品が展示されていた。特に自宅の庭には、コアラやカブトムシなどユニークな造形の動物たちのテーマパークになっており、とても80歳を超えてから制作された作品とは思えない。
近年は視力を悪くしたこともあり、小さな鶏のオブジェをつくったのを最後に制作はやめている。それでもモルタルを使った作品は3年ほど前までつくり続けていたというから驚きだ。現在も朝5時に起きて野菜づくりを続ける毎日で、いまも体を動かし続けている。
平嶺さんは、シベリアに抑留されていた時代を「楽しかった」と振り返る。想像を絶する過酷な労働環境だったと思うが、そう断言できるのは、きっと強い意志を持ってこれまで数々の困難を乗り越えてきたからだろう。
「シベリアから帰って来てから何もかんもしとるんだよ」と、その言葉の端々から僕が感じるのは、気概を持って生きている姿だ。言い換えれば、それは自分の人生を能動的に生きるということに他ならない。これまでいくつもの人生の壁を乗り越えてきた平嶺さんだからこそ、80歳を超えて作品をつくり出したという話も僕にはごく自然なことのように思えてしまうのである。
投稿者プロフィール
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文・撮影
櫛野展正(くしの のぶまさ)
1976年生まれ。広島県在住。2000年より知的障害者福祉施設職員として働きながら、広島県福山市鞆の浦にある「鞆の津ミュージアム」 でキュレーターを担当。2016年4月よりアウトサイダー・アート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。
住所:広島県福山市花園町2-5-20
クシノテラス http://kushiterra.com
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