#16 とっておきの景色

アウトサイドからこんにちは!

まだ世の中に知られていない表現や作品を発掘する日本唯一のアウトサイダー・キュレーター櫛野展正(くしの・のぶまさ)によるコラム。現在、クシノテラスにて「アウトサイド・ジャパン展」が開催されており、4月には東京ドームシティでの開催も決まりました。
今回はパリの展覧会で魅了された作品の作者、原塚祥吾さんを取材しました。

長崎県 原塚祥吾(はらづか・しょうご)

パリの美術館にて

 パリ北部に広がるモンマルトルの丘の麓に、パリ市立アルサンピエール美術館はある。19世紀の金属建築で知られる市場を改装してオープンしたこの美術館は、2010年から11年にかけて「アール・ブリュットジャポネ」展を開催し、約12万人の観客を動員して記録的な成功を収めたことでも知られている。

 当時、僕は福祉施設の職員として、展覧会に出展した障害のある人とともに、この美術館を訪れていた。それから8年が経った現在、その続編となる展覧会「アール・ブリュットジャポネII」が開催中だ。

 日本人作家52名の作品約640点が展示された空間を回遊していると、鉛筆で描かれた地図に目が止まった。全部で13枚あるその地図は、全て鳥瞰図のように空から街を見下ろした視点で描かれており、所々に消しゴムで消して上書きしたような跡も見える。

 道路や山林、建物などが簡略化された線画として全て等価に描かれており、作者にとっては地形の起伏などよりも街並みを創造していくことが重要であるような印象を受けた。まるで宝探しをするように、看板に描かれた文字などを読んでいくと時間を忘れてしまうかのようだ。この「とっておきの景色」に魅了された僕は、作者が住む長崎県の西部、五島列島を訪ねた。

小学5年生から描き始めた「架空の地図」

 2018年6月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産の島となった五島列島。この島に作者の原塚祥吾さんは、家族と暮らしている。1995年に2人きょうだいの長男として生まれた原塚さんは、現在23歳。案内されたリビングの一室で、原塚さんはときどき手を休めながら鉛筆を動かしていた。

 「生後8ヶ月ごろ、発語が出る前に数字などに異常に興味を示して、1歳を過ぎた頃には何百っていう数まで暗唱することが出来たんです。2歳ごろから言葉の遅れには気付いていたんですが、周りの子と同じように喋れていたから気にはなりませんでした。でも、幼稚園に入ってから、部屋に入れなくなって次第に集団の中で周りの子たちとも馴染めなくなったんです」

 柔らかな日差しが差し込む窓辺で、母の由美子さんは、息子の半生をゆっくりと話してくれた。原塚さんは、小学校1年生のとき、アスペルガー症候群と診断を受けた。現在、自閉症スペクトラム障害として認識されているこの障害は、コミュニケーション能力などに偏りがあることで知られており、原塚さんもこれまで様々な困難さと向き合ってきた。

 「小さい頃から大きな音が苦手で、店内放送のある大きなスーパーには入れなかったんです。耳をふさいでパニックになることもあったから、小中学校のときは音を遮断するイヤーマフをつけていました」

 小学生のときは、集団行動が出来ずに授業中も席を立つことが多く、くるくる回ったり手をひらひらさせたりと特異な行動も見られるようになった。計算はできたが、失敗を認めることが出来ず、いちど間違えたらパニックになることも多かったようだ。

 中学校は特別支援学級へ通級。中学くらいまでは、「冷蔵庫や蛍光灯から音がするのが嫌だ」と聴覚の面で異常な過敏性を示し、樹木が軋む音やテレビから聞こえてくるニュース速報の音などにも苦手意識を抱いていたが、高校生になって特別支援学校へ通うようになるとそうした感覚面での苦手さは自然と消失していった。卒業後は島内にある福祉作業所に通い、椿油をつくったり島のキャラクター製品の袋詰をしたりする作業に従事し、穏やかな日々を過ごしている。

 そんな原塚さんが、あの「地図」を描き始めたのは小学校5年生のときからだ。ある日、祖母の家にあった広告の裏に突然鉛筆を走らせた。地図に登場する建物の看板は、全国チェーンの店舗やコンビニなど実在の名前も多く、彼の頭の中で虚実が入り交じったさまざまな景色が組み合わさって、この架空の地図が出来ているのが何とも面白い。

 半年から1年に1枚のペースでこの地図は出来上がっており、画面の端まで及ぶと同じサイズの画用紙を上下左右に繋げることで、この地図はどんどん広がりを見せている。興味深いことに最初に描いた地図にだけ、翼を広げた鳥が描かれており、彼自身の姿を象徴的に描いたものに思えてくる。

 そして、そもそもこの地図は他人に見せるために描かれたものではない。途中で自分が気に入らなくなったら修正をしやすいように、画材はいつも鉛筆を使っているし、その濃淡が画面に不思議なリズムを生み出している。昔から、島内の病院など高いところにのぼって街を見下ろすのが好きだったという原塚さんだが、不思議なことに長時間景色を見ることはないという。「階段をのぼるのが好きなんでしょうね」と母は分析する。

ノートに刻まれた殴り描きの言葉

 自宅を訪問して驚いたことがある。それは、原塚さんは地図だけではなく様々な表現を行っているということだ。「小さい頃から絵を描くことが好きでした。なんでも形を記憶していて、1歳半から数字やひらがなを描いていました。ストローでアルファベットの形をつくることもあったし、とくに数字は強くて幼稚園のときには九九を丸暗記していましたね」と母は語る。

 広げて見せてくれたのは、原塚さんが旅先で目にした様々な場面を走馬灯のようにすべて記憶で描いた絵画だ。それは熊本や愛知など、どれも家族で訪れた場所の景色であり「これはあの駅の待合室から見える景色じゃないの」など家族が彼の周りで楽しそうに想像を巡らせていた。原塚さんにとって、やはり家族という存在は大切なのだろう。

家族旅行の様々な場面を記憶して描いた絵画
カレンダーは全て記憶している
家族が老化していく様子を絵で表現している

 なかでも僕が一番興味を示したのは、7冊ほどあるノートの存在だ。ある時期は、スナックや階段にこだわって、そうした絵ばかりを描いていた。またあるときは地図に興味を持って、記憶した地形や地名を描いていたこともある。ケーブルテレビのチャンネルにも興味を示した時期もあるそうだ。風景や記号に対する彼の興味の移り変わりがこのノートには雑多に刻まれているし、それがどういう思考を経て現在の地図に移り変わっていったのかを覗き見ることができる。

 ノートをめくっていくと、「ものにぶつかってもパニックにならなかった」「自分を責めることがなくなった」などの言葉が殴り書きされたページに手が止まった。丁寧なレタリングが特徴の原塚さんの表現のなかでも、ひときわ異質である。

 母親の話では、原塚さんは小学校2年生から吃り気味になり、中学校2年生くらいから徐々に言葉に詰まるようになり緘黙となった。伝えたいことが言えない、そのストレスを僕は想像することが出来ない。

 「小学校の頃やったですね、『僕はなんでこんな人と違って生まれたんでしょうか?』って問いかけてきたことがあったんです。中学校の頃に送り迎えしたときには、『おばあちゃん、僕はこんなに大きいからね、僕は一人で生きるよ』と言うんですよ」と傍で聞いていた祖母は口を開いた。

 こんな風に、逃れることの出来ない苦しみから生まれた表現を目にしたとき、人間の豊潤な魅力が詰まっているようで、僕はどうしようもなく魅力を感じてしまう。言葉でのコミューニケーションがうまく出来ない代わりに、彼は絵を描き自分を表現する。ひとつの欠損を補うように、また別の表現が突出する。その特別な表現から生まれた「景色」に僕はうっとりしてしまうのだ。

投稿者プロフィール

櫛野展正(くしののぶまさ)
櫛野展正(くしののぶまさ)
文・撮影
櫛野展正(くしの のぶまさ)
1976年生まれ。広島県在住。2000年より知的障害者福祉施設職員として働きながら、広島県福山市鞆の浦にある「鞆の津ミュージアム」 でキュレーターを担当。2016年4月よりアウトサイダー・アート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。
住所:広島県福山市花園町2-5-20

クシノテラス http://kushiterra.com

関連記事

特集記事

コメント

この記事へのトラックバックはありません。

TOP