#26(最終回) 彼方からの宿題

アウトサイドからこんにちは!

まだ世の中に知られていない表現や作品を発掘する日本唯一のアウトサイダー・キュレーター櫛野展正(くしの・のぶまさ)によるコラム。
最終回の今回は、流木アートを手がける上林比東三さんを取材しました。上林さんにとっての「宿題」を自分に置き換える櫛野さん。そして、連載を通してさまざまな宿題を櫛野さんは私たちに投げかけてくれました。これからもその意味を問いつづけていきます。

◎全コラムはこのまま残るので、何度でもアクセスしてください!

京都府舞鶴市 上林比東三

名札のついた造形物

 京都府北東部にある日本海に面した“海の町”・舞鶴市。西舞鶴駅から車で10分ほど走ったところに、静かな田舎町の中でひときわ異彩を放つ場所がある。

 外には、宇宙人や動物をあしらった大型の造形作品がたくさん並べられ、その多くに流木が素材として使われているようだ。金や銀色に塗装された宇宙人の頭は、理美容師の練習用マネキンを再利用したもので、その横には吹き出しで独自に考案された「宇宙語」まで手描きで綴られている。何よりミスマッチなのは、ここが自動車の鈑金塗装店だということだ。展示された大型の造形物の中には、ワニとティラノサウルスのハーフだという「ワニラサウルス」や「オオカミ女」など、ユニークな名前がつけられているものもあり、見ているだけで楽しい。

 「なんとも言えないセクシーな流木を見つけたんですわ。これは女の感じのものをつくりたいと思って。狼男とかよくありますやん、だから『オオカミ女』をつくったらいいんやないかと思って、制作したんですわ」

 声をかけてきたのが、この自動車鈑金塗装店「カーペイント・ヒトミ」のオーナーで、作者の上林比東三(かんばやし・ひとみ)さんだ。現在68歳の上林さんが、制作を始めたのは5年ほど前のこと。これまで300体以上を制作し、いまや地元のテレビや新聞にも登場するなど、ちょっとした街の有名人となっている。

でっかい作品を気持ちでつくる


 1952年に東舞鶴市で農家の次男として生まれた上林さんは、小さい頃から絵を描くことが好きな子どもだった。小学校5年生のときには「将来は、看板絵師になりたい」と夢を見ていたが、母子家庭で稼ぎ手が必要だったこともあり、中学校卒業後は西陣の織元で丁稚奉公として住み込みで働いた。そこでは、帯の図案制作の修行に励んでいたが、あるとき「パンクした自転車を直しに行ってこい」と主人に雑用を頼まれた。近くの自動車修理店へ駆け込んだ上林さんは、そこで運命を変える光景を目にする。

 「油まみれになって従業員の人たちがバイクや自動車を修理しとったんやけど、僕がいままで知らんかった世界だったから、『なんか面白そやな』と一気に引き込まれたんですわ」

 あまりに感動した上林さんは、手持ちの給料の中から、思わず原動機付自転車を新車で購入。お盆休みに実家へ帰省したとき、舗装されていない田舎道をその原付で走っていたところ、転んで足を怪我してしまう。そこから、まるで緊張の糸が切れたかのように、2年ほど働いていた織元を突然退職し、17歳で舞鶴にあった大型自動車の修理会社「旭産業」へ就職した。車の修理だけでなく、持ち前の器用さでスプレー缶などを使って車の塗装をしていたところ、別の板金会社の社長の目に留まり、「いまより給料を2万円ようけやるから」と22歳からその会社へ異動した。

 「そこに、3年ほど勤めとったけど、喧嘩して辞めて、フリーランスとして旭産業に戻ったんですわ。28歳のときには、また別の板金会社へ1年ほど行ったけど、また喧嘩して辞めてな。当時は、工場を持たずに、軽自動車の箱バンに塗料を積んで行商みたいなことをして、5〜6件の自動車会社と関わっとってね。旭産業へも、また関わらせてもらっとったんやけど、だんだんと修理で入ってる子たちが色も塗りだして僕の仕事が減ってきたんですわ。それで、何度も出戻りさせてもろうた旭産業の社長には恩も義理もあったんやけど、39歳で工場の跡地を借りて独立し、この場所に『カーペイント・ヒトミ』を立ち上げたんですわ」

 上林さんが、エアブラシで車に塗装を始めたのは、25歳のとき。「これを描いたら、おもろいやろな」と自分が乗っていたトヨタのライトエースの両面に『宇宙戦艦ヤマト』と『科学忍者隊ガッチャマン』の必殺技「科学忍法・火の鳥」の姿を描いた。70年代後半といえば、バニングカーや75年から公開された映画『トラック野郎』シリーズのヒットにより、全国各地にデコトラが流行り始めた頃だが、上林さんはそうした流行には目もくれず、ただ自らのやりたいことを追求していったというわけだ。お話を伺った部屋には、上林さんがこれまで乗り継いできた車のミニチュア模型が展示されてあり、よく見ると塗装などもひとつひとつ精巧に再現していて、物凄いこだわりっぷりだ。


自動車鈑金塗装店「カーペイント・ヒトミ」は、板金塗装を中心に仕事を請け負っているが、北近畿地方でエアブラシを使った車のスプレーアートができたのは、この店だけだったため、当時から塗装の依頼も多く舞い込んでいたようだ。ところが、上林さんは自分が気に入らない絵は描かなかった。だから、その頃の写真を見ると、中山美穂や工藤静香、そして矢沢永吉など上林さんの趣味が大いに反映された装飾の絵ばかり描いているのが、何とも面白い。

 最初は、お孫さんがお風呂で遊ぶことができるように発泡スチロールなどを加工して「原始人のアジト」や「海賊船」などの玩具をつくっていたそうだ。そんな上林さんが、流木制作を始めたきっかけは、仕事の息抜きで海を訪れたとき、流れ着いた1本の木が「蛇」に見えたこと。それからというものの、動物などを中心に手のひらサイズの作品を制作していたが、次第に流木の風合いを活かすため塗装を止め、どんどん大きな作品を制作するようになった。

 特に、「十二支をつくったときは、実物に似せるのに苦労してストレスが溜まったんです」と近年制作している大作は、自由に表現するために宇宙人や妖精など見たこともないような生物ばかりをつくっている。

 「未知の生物やったら、どこに手や足をつけようが自由でしょ。でっかい作品は、僕の気持ちでつくっとる感じかな。ちっこい作品では僕の思っとるもんが表せれん。だから、どんどん作品が大きうなってくる。本当は、海岸に打ち上がっとる大きな流木も使いたいんやけど、人力じゃどうにもならんのよ。流木って、ゴールがないんですわ。海から流れてくるものに対して、僕は宿題を与えられてるんです。もともと持ってる流木の形からイメージしてつくってるから、あまり手を加えたら駄目なんですわ」

 何より上林さんが、大作をつくるようになったきっかけは、神戸市出身の元・美術講師、浦岡雄介さんとの出会いも大きい。3年前に知人を介して、浦岡さんが住み込みで開設・運営する市内の文化交流スペース「いさざ会館」へ遊びに行ったとき、すぐに2人は意気投合した。上林さんは「いさざ会館」に多くの作品を寄贈し、浦岡さんも上林さんの作品を積極的に社会へ紹介するようになった。進むべき道に灯りをともしてくれる浦岡さんのような支援者が現れたことで、上林さんも本気になって流木と対峙するようになったというわけだ。
 
 昨年からは、大作を繋ぎ合わせるときの繋ぎ目を隠すため、それまで処分していた木の「おがくず」を使って装飾を施すようになった。最新作の『キャッツ』を模した作品などは、「おがくず」を使って、猫の模様を見事に表現している。ただ、作品が大型化するにつれて、お客さん専用の駐車場だった場所も大作が占拠するようになったため、「お客さんには路駐してもろうとる」と笑う。

浦岡雄介さんと

何かを始めるのに遅すぎることはない


 上林さんの人生を振り返ってみると、急に西陣の織元から自動車業界へ転職したり、自動車業界でも何度も板金会社を渡り歩いたり、そして近年では、突然に流木で作品をつくり始めたりと、良い意味でフットワークが軽い動き方をしていることが分かる。

 「若いときから計画性はなくて、『思ったらまず動く、動いてから考える』という生き方をしてきとる」と話す。僕らのように、まず誰かに相談したりネットで検索したりして、じっくり石橋を叩いて渡るような生き方ではなく、自らの直感を頼りに素早く時代を駆け抜けていく上林さんのような生き方は、もしかすると僕らにいちばん必要とされる教えなのかも知れない。「いまの人生に後悔はない」と断言する上林さんは、こう言葉を付け足す。

 「僕は60歳を過ぎて、流木をやり始めたけど、『もっと早く始めとったら良かった』とは思わんよ。きっと年齢とこれまでの経験がマッチできたんが、この時期やったんやわ。とにかく、どんどん動いていくことで、周りからいろんな協力者が現れてくるのよ。僕が浦岡くんと出会ったように、自分の目指しとるところに対して、自然とその方向に導いてくれる人が現れてくれるはずや」

 ひとの話に耳を傾けることが、いつも重要とは限らない。大切なのは、何が正しいかを自分で見極めて判断できるようになることだ。僕は、上林さんのように「後悔がない」と言い切れる人生を送ることができるだろうか。何かを始めるのに遅すぎることはないということを、僕はいつも多くの先輩たちから教えていただいている。肯定と否定の連続かも知れないけれど、これからも軌道修正を繰り返しながら、僕の人生も、そしてあなたの人生も続いていくのだ。

 海から流木が流れ着くように、僕らの人生にもときどき大きな「宿題」が降り掛かってくるだろう。そこを乗り越えていくためにも、自分で考えて行動していく習慣を身に着けていかなければならない。

上林さんによる作品解説

投稿者プロフィール

櫛野展正(くしののぶまさ)
櫛野展正(くしののぶまさ)
文・撮影
櫛野展正(くしの のぶまさ)
1976年生まれ。広島県在住。2000年より知的障害者福祉施設職員として働きながら、広島県福山市鞆の浦にある「鞆の津ミュージアム」 でキュレーターを担当。2016年4月よりアウトサイダー・アート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。
住所:広島県福山市花園町2-5-20

クシノテラス http://kushiterra.com

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