父が90歳になった。
「ここまで生きるとは思わんかった」と感慨深そうにつぶやきながら、「まだ当分、死ぬような気がせん」と笑っている。
世に言う健康寿命の平均値をひょいと超えた父は、今のところ日常生活に介護は必要ない。卒寿の父と五十路の娘ではあるが、いくつになっても父の立ち位置は親で、娘の私は子ども。どんなときでも私の前では、「だいじょうぶ。世話ぁない」が口ぐせだ。
それでもときどき、父も年を取ったと感じることがある。90歳という年齢からすれば、ごくごくあたり前のことだが、父は実年齢よりもかなり若く見られることが多い。歯はぜんぶ自前で、なんでもかんでもがっつり食べる。足の向くまま、その日の天気や体調と相談しながら気のすむまで散歩する。そんな姿を間近で見ていると、不死身ではないかとさえ思ってしまう。
そうして時をやり過ごしているうちに、いつの間にか父の耳は遠くなり、もの忘れが増え、つまずきそうになることも多くなった。老いは父にも、誰にでも、もれなくやってくるらしい。
父は根っからのカープファンだ。転勤族だったが、どこに赴任してもカープをずっと応援し続けてきた。職場が広島市内のときは、仕事帰りに背広のまま旧広島市民球場に駆けつけ、カープ贔屓のラジオ中継をかじりつくように聴いていた。
私が子どものころの記憶にあるのは、話しかけるなというオーラを全身に漂わせて、テレビ中継を観ていた父の姿だ。カープの試合がテレビで中継されるのは、対戦相手がジャイアンツのときくらいだったので、その日だけは、チャンネル権を決して譲ってはくれなかった。テレビが一家に一台しかなかった時代の話だ。
カープが全国的な人気球団になった今、テレビ中継はぐんと増え、父はそれを楽しみにしている。カープの選手たちが私のかわりに親孝行をしてくれるおかげで、今年の猛暑も元気に乗り切ってくれた。
ただし、VTRがたびたび差しこまれるテレビ中継は、ほとほと疲れるらしい。耳が遠い父は、実況が聴こえにくい。映像だけでは前の打席のVTRだと気づかず、「やったやった!また打った!」とぬか喜びをする。私がすかさずVTRだと口をはさむと「へ?」と耳に手をあて、昔ばなしの絵本に出くるお爺さんのようなポーズで聴き返す。事情が飲みこめると拍子ぬけした顔になり、気を取り直そうとするのだが、そうこうしている間に凡打に倒れてしまっていることもある。
そんなやりとりを何度も繰り返すうち、私は口をはさむのをやめた。アライさんがまたヒットを打ったと思ってごきげんなら、すぐにがっかりさせなくてもいいと思ったからだ。
季節が変わるころ、父は「やっ、ぅお?こりゃあ前の打席かぁ…」と言いはじめた。それからは、ぬか喜びと拍子ぬけが減ってきたような気がする。年を重ねると、人に言われたことはなかなか覚えられないものだが、自分で気づいたことは記憶が定着しやすいのだろう。
そんなある日、私は仕事仲間と一緒に居酒屋のテレビでカープの試合を観ていた。逆転のチャンスで目の覚めるような一打。「やった!」と立ちあがった瞬間、「VTRですよ」と笑顔でたしなめられた。 父の姿は、私の行く道なのである。
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