#23 「観客」から「演じ手」へ

アウトサイドからこんにちは!

まだ世の中に知られていない表現や作品を発掘する日本唯一のアウトサイダー・キュレーター櫛野展正(くしの・のぶまさ)によるコラム。
今回は、 朝霞に米軍基地があったときの、市民の悲喜こもごもを紙芝居にし、発表している田中利夫さんを取材しました。

埼玉県朝霞市 田中利夫

「埼玉の上海」と呼ばれた戦時中の朝霞市

 埼玉県南部にある朝霞市。東京のベッドタウンとして駅周辺にはマンションやコンビニ、スーパーなどが立ち並び、住みやすい都市として発展を遂げている。そんな朝霞には、敗戦後より1986年にアメリカから全面返還されるまでのあいだ「キャンプ・ドレイク」と呼ばれる米軍基地が存在していた。1950年代の朝鮮戦争全盛期には、基地周辺に約70店のバーやキャバレー、連れ込み宿などが軒を連ね、在日米軍将兵を相手に「パンパン」や「パンパンガール」と呼ばれた売春婦が夜な夜なあふれ返り、朝霞一帯は「埼玉の上海」と呼ばれる歓楽街になっていた。

 そうした戦後の混沌とした朝霞の情景を紙芝居に仕立て講演活動を行っているのが、市内で独居生活を送る田中利夫さんだ。田中さんは、1941年に2人兄弟の長男として生まれた。駅前にあった実家では、母親が戦前から貸席業を営んでいたが、次第に米兵や娼婦たちが逢い引きする場所として利用されるようになった。

 「朝霞の街が『パンパン』と言われる女の人たちとアメリカ兵によって悪い街になっちゃった。朝霞の中学生たちは、タバコを吸って『パンパンごっこ』をするという悪いレッテルを貼られていたんです。特に僕の家は『貸席』をやってたから、同級生のお母さんから『パンパン屋のガキと遊ぶんじゃないよ』と言われていました。だから『朝霞の中学を卒業しても、どこの高校も受け入れてくれないんじゃないか』と、僕の父親は危惧していました」

 「医者になれ」という父親の勧めで、田中さんは東京の獨協中学・高等学校へ進学。しかし、勉強についていけず挫折してしまう。埼玉と東京の生活環境の違いにも戸惑いがあったようだ。

 「東京の子が、みんなお坊ちゃんに見えましたもん。そもそも言葉遣いが違いました。僕らは普段、友だちのことをオメェと言ってたんだけど、東京の子どもたちはキミだったから慣れるまで恥ずかしかったですね」

 そう話す田中さんは、中学1年生のとき、先輩が重量挙げをしている姿を初めて目にし、憧れを抱くようになった。毎日眺めていると、「君も挙げてごらんな」と紛れもない下町言葉をかけられ、挑戦したところ50キロのバーベルを軽々持ち上げることができた。その姿を見て、先輩から「なんと坂田金時の再来かい」と驚かれ、「坂田金時」から派生して周囲から「金ちゃん」という愛称で親しまれるようになった。何とその先輩こそ、落語家・古今亭志ん生の次男、後の3代目古今亭志ん朝だったというから驚きだ。

 田中さんが高校3年生になった頃には、せんべい職人から銭湯や米屋、不動産業、金融業など様々な職種を手掛けてきた父親の事業が下り坂となり、学費の支払いも滞るようになった。「大学に行くことはできないだろうから」と退学届を出したものの、教師に「高校だけは卒業しておけ」と説得された。

 中学3年生のときから同級生とハワイアンバンドを結成していた田中さんは、週末になると大学のダンスパーティに出演し、収入を得ていた。そうした経験から、同級生に倣って大学へ進学するというような意欲は持てなかったため、デザイナーを目指して、当時付き合っていた女性の姉が通っていた文化服装学院へ入学した。

 卒業後は、都内のアパレル会社でデザイナーとして勤務。田中さんの斬新なデザインは、デザインをもとに型紙に起こすパタンナーの人たちを困惑させ、試作をつくると田中さんがイメージしていたものと別のものができあがることもあったようだ。「お前のデザインは服にならねぇ、絵を描いているだけだ」とパタンナーから苦言を呈されたことにショックを受け、2年で退職。「だったら自分で服を縫えるようになろう」と洋裁の技術を求めて文化服装学院へ再入学した。

 卒業したあとは、別のアパレル会社へ就職。以前勤めていた会社より待遇は良かったものの、先輩の女性デザイナーたちから執拗なイジメを受け、自らが考えたデザインを横取りされることもあったことから、2年で退職。ちょうど満員電車での通勤生活にも嫌気を感じていたこともあり、35歳から自宅で洋裁教室を開講した。体力の衰えや母親の介護の問題もあって、一昨年で教室を閉じることになったが、約40年にわたって続けることができた。

ノートに描いた朝霞の様子を紙芝居に

 そんな半生を歩んできた田中さんが、1950年頃の朝霞の様子を記録し始めたのは、高校生の頃からだ。誰に見せるわけでもなく、当時の思い出を文字やイラストでノートに綴ってきた。そのことを知っていた友人が「みんなに見てもらったらどうか」とコピーして配布したところ、2000年代に入って市民グループ「朝霞市基地跡地の歴史研究会」から「当時の話を聞かせて欲しい」と声をかけられる。会の中で話をしているうちに、会員として参画するようになり、2013年に会のアドバイザーを務める早稲田大学の佐藤洋一教授から「金ちゃんの話は面白いけど、いまの時代の人が話を聞いただけで、想像できるか分からないから紙芝居にしたらどうか」と提案されたことで紙芝居をつくるようになったわけだ。

 最初につくった紙芝居は『アメリカ兵とパンパンとぼくン家』。家に滞在していた娼婦のお姉さんとアメリカ兵に連れて行ってもらったキャンプ・ドレイク内にあった将校クラブでの食事の様子などを描いた。これまで制作した絵の枚数は、約500枚にのぼる。どれも小学校1年生から6年生までに見聞きした自身の体験を思い出して描いたものだ。

 特に僕が興味を持ったのは、1枚1枚に使われている紙の材質や絵のタッチが不揃いなこと。布やカレンダーや包装紙の裏に描いた絵もあるし、広告や毛糸などを貼り付けた絵もある。「近所の子供たちが絵の具を持ってきてくれることもあるから、画材を買うことはありません」と教えてくれたが、僕から見れば、身近にある素材を活用した豊かな表現力は、デザイナーとして田中さんが長年培ってきた技術の賜であり、それがこの紙芝居を一層魅力的に仕上げているように思う。1枚描くのに丸一日を費やすそうで、独創的な絵を眺めているだけでも、田中さんが考えながら、そして楽しみながら描いていることが想像できる。

 「正確な年月などの数字は大事にしていないんです。図鑑なんかを見ちゃうと格好良く描きすぎてしまうから、たとえ間違っていても記憶だけを頼りに描くようにしてますね」

 自らの個人史を掘り起こして、描きたいものだけを描いているから、きっと細かな整合性などには関心がないのだろう。一方で、興味関心の強い部分に関しては徹底した描写が見受けられる。例えば、娼婦の人たちの服装は洋裁師という仕事柄、服の模様や色まで鮮明に描いている。当時の田中少年にとって米兵や娼婦の人たちは、優しいお兄さんお姉さんであり、満たされた日々であったがゆえに、長期記憶としていつまでも頭の中に残っているようだ。

描いて語る金ちゃんの新しい人生

 田中さんが描くのは、教科書には載らない歴史だ。本来は自らの記録として留めておくために綴っていた田中少年が見た朝霞の歴史は、72歳から描き始めた紙芝居となって、いま多くの人に伝播している。グラフィックデザイナーの石塚幸治さんは、そうした田中さんの活動に共感したひとりだ。2014年から自主的にウェブサイトを制作し、田中さんの紙芝居を毎週公開し続けている。2017年には、田中さんと一緒に絵本『金ちゃんの少年時代』を出版し、原画展の開催にも尽力した。近年は、各地で紙芝居を披露する機会も増えたため「パンパン」という呼び名を「ハニーさん」に変更するなど、石塚さんの助言をもとにした気配りも見られるようになっている。よく見ると性交渉を描いた場面の絵は少ないし、直接的な描写の絵には上から紙を貼るなどの工夫が施されている。

 田中さんの紙芝居は、決まった台本があるわけではなく、1枚の絵について思い出を語っていくというスタイルだ。饒舌に語り続けるその光景を眺めていると、子どもの頃は引っ込み思案だったという姿は、まるで想像できない。石塚さんと初めて会ったときには「ただ生きているだけです」と話していたという田中さんだが、現在は「年取ってみんなやることなくて困っているけど、お陰様で僕は毎日楽しいです」と笑う。昨年6月に心筋梗塞で倒れ、現在は心臓にカテーテルを入れながら制作に励む田中さんは、「まだまだ描きたいものはあるから」と制作の手を止めることはない。

 誰に見せるわけでもなく自分だけのために綴っていたノートはいつの間にか多くの人の目に触れることになり、田中さんの人生を好転させた。70歳を超えてから始まる新しい人生なんて想像するだけでワクワクしてしまうし、当人にとっては取るに足らないものの中にこそ、人生を一変させてしまう宝が眠っている可能性だってあるということに気付かされる。

 そして、自分で描いた絵と語りたい言葉を気軽に披露できる紙芝居というシステムを手にしたことが、田中さんにとっては何より幸運だった。発表の機会に恵まれたことで、それまで傍観者にしか過ぎなかった田中さんは、「演じ手」として人々の輪の中心で脚光を浴びている。インターネットの大海には存在しない「情報」を持った田中さんの話は、これからますます重宝されることだろう。

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【次回更新#24】
2019年12月2週目(12月9日~13日)予定

投稿者プロフィール

櫛野展正(くしののぶまさ)
櫛野展正(くしののぶまさ)
文・撮影
櫛野展正(くしの のぶまさ)
1976年生まれ。広島県在住。2000年より知的障害者福祉施設職員として働きながら、広島県福山市鞆の浦にある「鞆の津ミュージアム」 でキュレーターを担当。2016年4月よりアウトサイダー・アート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。
住所:広島県福山市花園町2-5-20

クシノテラス http://kushiterra.com

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