#20 河童たちは、どこへ行く

アウトサイドからこんにちは!

まだ世の中に知られていない表現や作品を発掘する日本唯一のアウトサイダー・キュレーター櫛野展正(くしの・のぶまさ)によるコラム。
今回は、その時代と地域性が結びついた作品の作者・中原弘さんを取材しました。

福岡県北九州市 中原弘(なかはら・ひろし)

鉄の街で生まれたオブジェ

 八幡製鐵所を中心に「鉄の街」として発展を遂げてきた福岡県北九州市。その中央部に位置する戸畑区の住宅街には、「小さな作業場 STEEL ART WORKS」の看板を掲げた小さな工房がある。この家に住む中原弘さんが、自宅の駐車場を改装したアトリエ兼展示スペースだ。

 人がひとりやっと通れるくらいの狭い館内には、これまで制作した大量の作品がぎっしりと陳列されている。戸畑祇園大山笠や小倉祇園太鼓、炭鉱での採炭や水上輸送など地元に所縁のある光景などが鉄のオブジェで再現され、素材に鉄クズを使用しているため、どれも黒光りしているのが特徴的だ。

 そして、よく見ると、それらのオブジェは人ではなく全て「河童」になっているのが、何とも面白い。壁面を飾る「鉄画」と名付けた作品群に目をやると、国指定重要文化財の西日本工業倶楽部(旧松本家住宅)や旧戸畑区役所、旧古河鉱業若松ビルなどの名建築が並ぶ。

 「太平洋戦争中に食料が不足してくると、この松本家住宅へ仲間と果物や野菜を盗みに行ってな。よく使用人に見つかり怒られたわ」

 そう笑みを浮かべるのが、作者の中原弘さんだ。現在86歳の中原さんは、1932年に5人きょうだいの三男として、この街で生まれた。松本家住宅と言えば、明治専門学校(現在の九州工業大学)を創立したひとり、松本健次郎の自邸として知られている。やんちゃで活発な子どもだった中原さんの兄弟は、みな体が大きく、スポーツ万能だった。成長するにつれて、中原さんも陸上競技に夢中になったが、「お腹がすくから、陸上はするな」と両親から咎められることもあったほど当時は食糧難で困窮した時代だった。

 高校卒業後は、同市若松区にあった造船会社へ就職。そこで働きながら、20代後半から造船会社のなかで「中原船舶鉄鋼」という船舶の修理会社を立ち上げた。エンジン機器の修理などを担当し、繁忙期にはスタッフを10人ほど雇用していたが、親会社の倒産により中原さんの会社も72歳のときに閉業した。

小説家・火野葦平の影響で「河童」を制作

 小さい頃から絵が好きだった中原さんだが、両親から「金がいるけぇ、絵描きにはなるな」と言われて以来、絵を本格的に描くことはなかった。ところが生活に余裕ができたことや、兄や知人、そして会社の社長までもが油絵を描いていたことから、中原さんも38歳のときから独学で油絵を描き始めた。大作を描き展覧会などへ出展していたものの、あるときから制作後に具合を悪くするようになった。いろいろ調べていくと、どうやら油絵の具の匂いに酔ってしまうことが原因だと分かり、1993年に展覧会へ出展したことを最後に制作はやめてしまった。

 そんな中原さんは、まだ家で油彩画に取り組んでいた1989年に、会社で密かに鉄の彫刻を始めた。中原さんの会社は造船業を営んでいたため、職場では余った鉄クズがたくさん出る。造船所の片隅に積み上げられた鉄板の切れ端を見ているうちに、中原さんは鉄クズを加工した人形制作を思いつく。

 見よう見まねで切ったり曲げたりしているうちに、次々に形を変えていく鉄という素材に魅了されていった。当時は、「社長は遊びょうる」と思われないように、仕事が終わって社員が帰ったあとに、ひとりで密かに作業に取り組んだ。

 「最初は人形のような抽象的な形をつくって帰ったんです。あまりに不気味だったから、『そんな狂気のようなものをつくったらいかん』と叱ったんです」と自らもニードルアートを嗜んでいた13歳年下の妻・太美榮さんは教えてくれた。

 試行錯誤の末、2年ほど経った頃には、河童が登場する作品を多く残した郷土出身の小説家・火野葦平の影響で、中原さんも河童をモチーフにした鉄の作品制作に取り組むようになった。「私は主人の作品のファンで、応援する意味も込めて口を出していたんです。私がニコッとすれば『この河童は良かったんだ』と思うようになったみたいで」と太美榮さんは笑う。太美榮さんが叱咤激励を繰り返したことが、まだ小さな灯火だった中原さんの創作意欲に大きな火を付けたのかも知れない。

 仕事終わりの制作ではどうしても従業員の目を意識してしまい、のびのびと制作ができないため、1年ぐらい経ったときに知人の一軒家を借りることを決意。そこは車で片道1時間半もかかる田舎だったが、仕事のない日には、そこで終日集中して制作に取り組んだ。やがて中原さんの作品は評判となり、個展を各地で開催するようになった。これまで自身や妻のためだけにつくっていた作品は、たくさんの人目に触れることになった。それが結果的に、中原さんの作品を大きく発展させていくことになる。

 あるとき、何体もの河童をつくっていくうちに中原さんは「これを組み合わせてシリーズ化したらどうだろうか」と発案する。火野葦平の詩集などを読んで、自分なりのイメージを膨らませ、北九州にある5つの祭りをテーマに制作するなど、単体だった河童はどんどん集まり、やがて群れをなすようになった。個展ごとにテーマを設定し、さまざまな場面描写を河童たちが担うようになり、こうした河童の集合体は中原さんの代表作となった。

 その制作方法は、まず鉄クズを切断し熱を加えながら成形後に水をかけて冷却。熱を冷ましたあとで、廃油のエンジンオイルをさび止めに塗って黒く変色させていく。鉄で船のオブジェなどをつくるときは、自分の好みの色になるまで、半年ほどかけて錆びさせることもあるようだ。通常の工程だと、河童1体をつくるのに6時間ほど掛かってしまうが、中原さんは何体も同時に制作し、似たようなポーズの河童を組み合わせて群れをつくっていく。

 意欲的な制作を繰り返すうちに「片道1時間半かけてアトリエまで行くのは時間がもったいない」という思いを抱くようになり、自宅隣の駐車場を改装し、2000年に「小さな作業場 STEEL ART WORKS」としてオープンした。その後も展覧会を重ね、いまから10年前の時点で既に1000点を超える作品を制作しているというから、驚きだ。

2000体近く制作した今

 近年は体調を崩したこともあり、4年ほど前から制作の手を止めている。「オリンピックをモチーフに作品をつくってみたら」などと太美榮さんが勧めても、中原さんは手を動かすことはない。「こんな重いものをどうして俺がつくったんやろうか」とポツリと呟く。

 あくまで僕の勝手な推測だが、中原さんはもう自らの執着心を極限まで突き詰めてしまったのではないだろうか。生涯で2000体近い作品制作を続けてきた中原さんにとって、もう「つくりたい」と情熱を傾けるようなものは無くなってしまったのだろう。

 これまで制作した作品は各地に寄贈したり工房で保管したりしているが、一番の問題はこうした作品を将来的にどう保存管理していくかということだ。一代限りで生み出された芸術には跡を継ぐ者はいない。中原さんのつくった河童の重みが、ずしりと僕の掌にのしかかる。

投稿者プロフィール

櫛野展正(くしののぶまさ)
櫛野展正(くしののぶまさ)
文・撮影
櫛野展正(くしの のぶまさ)
1976年生まれ。広島県在住。2000年より知的障害者福祉施設職員として働きながら、広島県福山市鞆の浦にある「鞆の津ミュージアム」 でキュレーターを担当。2016年4月よりアウトサイダー・アート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。
住所:広島県福山市花園町2-5-20

クシノテラス http://kushiterra.com

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