その54 ところ変われば「???」

 父が、家の中から玄関のドアに向かって「ごめんください」と言っていた。年末年始に帰宅して3日目のことだが、この話は、またのちほど。

 おかげさまで、今年はわが家で父と一緒に年を越すことができた。2021年の年末、心配していた新型コロナウイルスの感染状況は落ち着いたままだったので、予定通り帰宅が許されたのだ。

 父がお世話になっている老人ホームまで迎えに行くと、スタッフの方が「朝3時頃からそわそわされていましたよ」と笑顔で出迎えてくださった。10時に行くと伝えておいたのに、相変わらず気が早い。朝からチカラを使い果たして、またすぐに眠たくなるのではないだろうか。

 準備万端で待ち構えていた父は、「お、来たか」と何ごともなかったように笑った。帰宅して早めの昼食を終えたら、案の定「ちょっと昼寝でもするか」と眠たそうだ。「その前にトイレに行っとく?」と私。わが家のトイレに段差があることを、思い出してもらいたかったからだ。

 ホームでバリアフリーな生活をしている父にとって、この段差は障害になるに違いない。トイレまで付き添って「ここに段差があるからね」と声をかけると、父はスッと手を伸ばした。この日のためにレンタルした手すりを、無意識につかんでいる。そして、無事にトイレを済ますと、これもこの日のためにレンタルしておいた電動ベッドに寝ころんだ。

 これなら大丈夫。と胸をなでおろしたのも束の間。昼寝から目覚めた父の記憶は、見事にリセットされていた。

 寝室のドアを開けて私の顔を見るなり、「ありゃ、来とったんか。ようここがわかったのう」とキョロキョロしている。「お父さん、ここは家だよ。さっき一緒に帰って来たよ」「お、そうじゃったそうじゃった」と照れ笑い。どうやら午前中の出来事を、ぼんやりとしか覚えていないようだ。

 トイレに行こうとしたので「段差があるよ」と声をかけると、「ほうか。気をつけんといけんの」と初めて知ったような口ぶりだ。それからは、父がトイレに向かうたび、段差のことをしつこく言い続けた。そのうち、父は自分から「段差、段差」と声に出して、足元を確認してくれるようになった。

 
 翌朝、私がキッチンに立っていると、父がやって来て「食堂はどこですか?」と訊いた。へ?食堂?

 思いがけない質問に戸惑いながら、「ここは家だよ。朝ごはん、すぐにできるよ」と平静を装って答えた。「お、ほうか」と父。寝ぼけているのだろうか。いや、目が覚めたらいつもと違う場所にいて、不安になりながらも、とりあえず何か食べようとしたのだろう。そう思うと、父らしくてちょっと笑えた。

 食卓につくと、父は「よう寝たわー。カラダが軽い軽い」と肩を回して元気アピールをした。ごはんも「うまいうまい」と残さず食べて、「うまいもんを食わしてやろうゆう気持ちが、よう伝わってくる」と殺し文句のような褒め言葉までかけてくれた。味じゃなくて気持ちなんかい!と心の中でツッコミながらも、やっぱりうれしい。

 そして、3日目のこと。玄関のほうから「ごめんください」という声が聞こえてきた。お客さんかしら?いや、父の声だ!

 リビングのドアを開けて「お父さん」と声をかけた。玄関の内側にいた父は振り向いて「おっ、そっちか。迷うたわー。ボケたのう」と苦笑いをしながら、自分のおでこをポンポンと叩いた。「てへっ」とおどけてくれたので、この出来事はわが家の笑い話になった。

 トイレを出て廊下を右に進むとリビングのドアがあり、左に行くと玄関だ。住み慣れていたはずの家だし、迷うような広さでもない。けれど、94歳の父にとって、コロナ禍で帰宅できなかった2年のブランクは大きかったようだ。

 不安な思いをさせてしまったが、迷いながらも「ごめんください」と丁寧な挨拶をしていた父の姿を思い出すと、ほのぼのとした気分になる。まるで吉本新喜劇のようだ。それは、何ごともなかったから、笑って言えることだけど。

 生活環境が変わると、こうなる。という実例を、年末年始、父は絵にかいたように見せてくれた。


【次回更新 その55】
2022年3月3週目(3月14日~18日)予定

   

profile


角田雅子(かくだ まさこ)
広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作会社を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」。
 

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