父の言葉を、思わず書きとめた。
私が油断しているときに限って、父はふっと「ええこと」を言う。今回のそれは、髭剃り用の電気シェーバーが壊れて、新しいものを届けに行ったときのことだった。
白毛まじりの髭をジョリジョリしながら「おお、こりゃあええ。よう剃れるわぁ」と、いつものように「こりゃあええ」を繰り返す父。私が選んで買ってきたものに、父が文句をつけることはほとんどない。間髪をいれず、気に入ったという素振りを見せる。心の中で「いやいや、使いやすいかどうか、ちゃんと試しからにしてよ」と思わなくもないが、髭剃りあとの父の顔はさっぱりしていた。
部屋を見回して「ほかに何か不自由なことはない?」と訊いた私に、「ない」と即答した父は、こう続けた。
「不自由かどうかは気持ちの問題じゃ。欲を出せば不自由になる」。
おー、響いた。いきなり直球の名言である。「足るを知る」を父なりの言葉にすると、こうなるのか。
ちなみに「足るを知る」は、満足することを知っている人間は豊かだという老子の教え「知足者富」に由来しているそうだ。父が何げなく口にする「こりゃあええ」という言葉は、私への気づかいであると同時に、今この状況に満足しているという意思表示なのかもしれない。
髭剃りをきっかけに、「欲を出せば不自由になる」という94歳の達観を垣間見ることになったのである。
では、父が全くの無欲かというと、そうではない。人間だもの。
食べることに関しては、「量」に対する欲がある。口いっぱいに頬張って、おなかいっぱいになるまで食べないと満足できない。そうでなくては、食べた気がしないのだと言う。好き嫌いなく盛んに食べる人のことを健啖家というが、まさに父のことだ。年を感じさせぬ健啖ぶりは、それはそれであっぱれである。
そのガッツリ欲も、今の生活では満たされているので「不自由はない」と言い切れるのだろう。父がお世話になっている老人ホームの栄養士さんや調理してくださる方々のおかげである。父の元気のもとは、食べることなのだから。
そういえば、父はこんなことも言っていた。
父と顔を合わせるたびに「大丈夫?」と訊くのが、私の口ぐせになっていたある日。「わしの心配はせんでええから、自分のことを心配せえ。わしは大丈夫じゃ」と、父はいつになく真顔で言った。もしかしたら、私が疲れた顔をしていたのかもしれない。
「お父さんに会うと楽しくて、元気になるから大丈夫よ」。私がそう言うと「ほうか。じゃあ、もっと元気を分けられるよう、わしが元気を蓄えとかんといけんの」と父は笑った。
誰かを元気にしたいなら、まず自分が元気を蓄えておくこと。これも、私の胸にズキュンときた父の言葉だ。ごはんも、名言も、てんこもり。父は今日も元気である。
【次回更新 その53】
2022年1月3週目(1月11日~14日)予定
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