その11 非常事態の顛末記

 90歳の父が、11階まで階段を歩いてのぼると言い出した。

 マンションのエレベーターが取り替え工事のために使えなくなるという、わが家にとっては一大事のニュースが舞い込んだのだ。

 24時間完全に停止するのが1週間。その後、朝9時から夕方6時まで停止するのが1週間。あわせて2週間、エレベーターのない生活を強いられることになる。私は仕事や朝のゴミ出しがあるので、出かけないワケにはいかないが、父が杖をついて非常階段をのぼり降りするのは、どう考えても危ない。

 まず、完全停止の間に病院で予定されていた、父の定期検診を延期してもらった。検診を受けるために無理をして、階段で転倒したのではそれこそ本末転倒だ。

 父は「ゆっくりのぼれば大丈夫じゃ」と言い張ったが、「いやいや、11階はけっこうあるよ。私でも息が切れるし。それに、危ないのはくだりよ。コケたらもうアウトだから」と、半ば脅すように拝み倒して思いとどまってもらった。

 そして、非常事態を前にして、父と私はそれぞれ買い出しを目論んだ。私は調味料やトイレットペーパーなど、重たいものやかさばるものを買い込んだ。それを見た父が、翌日「こんなものを買うてみたんじゃが」と大きな袋を抱えて帰ってきた。なかには、カップ麺やカステラなど日持ちのする食料品がぎっしり。日々の食料は、私が出かけるときに買って来るから問題ないと伝えておいたのだが、食に関する父の危機管理は、それを上回っていた。

 「閉じ込められて兵糧攻めに遭うかもしれん」と戦国武将のようなことを言いながら、父はカップ麺の味見をはじめた。「なかなかイケる。食うてみんか」とすすめられたが、食べたことがあると丁重にお断りした。

 エレベーターが24時間停止して3日目。散歩を日課にしている父が、ついに外に出たいと言い出した。じっとしていられない性分だから無理もないのだが、早朝にエレベーターが動くようになる来週まで待ってほしい。そう伝えると、「カラダがなまっていけんのじゃ。散歩せんと調子が悪うなる。ボケてもいけんし」と言われ、「うーん」と考え込んでしまった。

 すでに非常階段をのぼり降りしている私は、途中に何カ所か休憩用のパイプ椅子が置かれていることを知っていた。手すりにつかまりながら休み休み行けば、何とかなるかもしれない。それに、一度やってみたら父も懲りるだろう。そう思って腹をくくった。

 散髪に行くと言う父と一緒に階段を降りはじめた。「よいしょ、よいしょ」とかけ声をかけている父は、なんだか楽しそうだ。11階から6階まで降りたところで「けっこうあるのう」と立ち止まったので、「まだ半分あるよ。椅子に座る?家に戻る?」と訊いてみたが、「世話ぁない」と歩きだした。

 結局、一度も椅子に座ることなく、父は階段を降りきった。散髪には一人で行くからいいと言われ、「終わったら連絡してね。マンションの下まで迎えに行くから」と念を押した。

 しばらくして、父が汗びっしょりになって帰って来た。一人で11階まで階段をのぼったのだ。くたびれたと言いながらも、どことなくスッキリした顔をしている。とにかく無事で良かったと胸をなでおろしたが、ちょっと嫌な予感がした。

 翌日、予感は的中した。父は懲りるどころか、また出かけると言い出したのだ。前日の成功体験を水戸黄門の印籠のように掲げ、「わしはまだまだ一人で大丈夫じゃ」と宣言して、意気揚々と階段を降りて行った。「階段は運動になってええ」と健脚を自慢する父と、なるべく出かけたくない娘。非常事態が足腰にきていたのは、私のほうだったかもしれない。

 2週間の工事期間が終わり、マンションに日常が戻った。その朝、散歩から帰って来た父が唸るように言った。「エレベーターがあるんは、ええのう~」。思わずこぼれた本音に、父と私は声を出して笑った。

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その10 おとぼけ親子のうっかり

   

profile


角田雅子(かくだ まさこ)
広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作会社を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」。
 

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