父は、キープディスタンスができるだろうか。
もともと人との距離が近い父は、会話をするときに顔をぐっと近づける癖がある。90代にしては背が高いほうなので、相手の目線に合わせようとして前かがみになるのだ。小さな子どもに話しかけるときなどは、膝も曲げて顔をのぞきこむので、目と目がくっつきそうになるくらい近い。
その姿は微笑ましくもあるが、いきなり距離を縮められた相手が、思わずのけぞりそうになることもある。そんなときは、横からすかさず「お父さん、近い近い」と笑ってツッコミを入れるのが、父娘漫才の持ちネタのようになっていた。
けれど、新型コロナウイルスの感染拡大を予防する「新しい生活様式」では、この行動は完全に「お控えください」だ。いくらマスクをしていても、推奨されているソーシャルディスタンスとはほど遠い。父の場合はまず、体に染みついた距離感を変えることから、新しい日常をスタートしなければならないようだ。
この原稿を書いている今、地域の緊急事態宣言は解除されたが、父がお世話になっている老人ホームの面会中止は、まだ解除されていない。念には念を入れた対策で、すこやかな日々を支えてくださっていることには、心から感謝している。
「はよう自由に会えるようにならんといけんのう」と、電話の向こうで再会を楽しみにしている父も、今はしょうがないと思っているだろう。この状況下で、父にとっていちばん安心安全な場所は、介護と看護のプロが見守ってくださっているホームなのだから。
この先、面会が許されるようになっても、それは新しい生活様式をふまえたものになる。マスクはしなければならない。きちんと手を洗って、消毒をするのも当然だ。しばらくは、長居も控えたほうがいいのだろう。入居者が守られている環境の中に、外から会いに行く私たち家族のほうが、気をつけなければならないことは多い。
そう自分に言い聞かせながら、ふと思った。握手はしてもいいのだろうか・・・。
父に会うときはいつも、帰り際に握手をしていた。「ありがとありがと。じゃあ、またの」と両手を差し出す父。ぎゅっと握り返すと、手をつないだまま「これでまた元気をもろうたわい」と、お得意の寿命が延びる話をひとしきり。「あはは」と笑って手を振り合い、さよならするのが決まりごとになっていた。
そんな場面でも、父のディスタンスはかなり近い。あたり前だと思っていた日常のひとコマだが、これからは、握手のかわりにちょっと距離をとってグータッチかな。
もうすぐ93歳になる父が、マスクをつけてグータッチをしている姿を想像してみた。なぜか、ネオ渋谷系漫才コンビのEXITが、ネタの締めに使うチャラいセリフ「おあとが here we go!」を思い出して笑えた。
サラリーマン時代に転勤族だった父は、生活環境の変化に対する順応性が高いほうだと思う。なので、新しい面会スタイルも、意外とすんなり受け入れてくれそうな気がする。
ただし、日常のキープディスタンスだけは、なじむまでに時間がかかりそうだ。「お父さん、近い近い」という私のツッコミも、もっとキレがよくなるように準備しておこうと思っている。
投稿者プロフィール
- 広島市在住。コピーライター、ラジオ番組の放送作家。広告制作を経てフリーランスに。備えあればと思い立ち、介護食士やホームヘルパーなどの資格を取得。座右の銘は「自分のきげんは自分でとろう」
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